常世と現世の存在理由について

常世(とこよ)と現世(うつしよ)の存在理由及び関係性について考察するブログです。

父が死んだ時に考えたこと

父の死

大学2年の終わりころに、父ががんになった。

その後、1年半の闘病ののち、大学4年の夏、父は死んだ。

その間に考えたことを書こうと思う。

父ががんになったと母から聞かされた時、私はぽろぽろと涙が出て止まらなかった。

それから、亡くなるまでに色々なことを考え、父の死を正当化したり、決して死ぬはずがないといった理由を考えたりした。

もともと、小学生高学年ころから、死については度々実感しては怖がっていたような子供だった。自分が本当に死んでこの世の中からいなくなることを客観的にではなく、主観的に考え、すごく怖くておびえていたように思う。

しかし、生活は父もおり、母もおり、兄弟もいるという、いたって平穏な家庭だっただけに、父ががんになったということに対応できず、父の苦しみや死に対する恐怖を考えると、どうしょうもなく辛く、毎日、死についてばかり考えていた。

死の正当化

宇宙には有と無があり、有があるからいろいろな悲しみや苦しみがある(楽しいことも有である)。したがって、世の中全てが幸せ(平穏)になるには、全てが無になるのがいい。だから、死は究極の幸せなのだ、と考えるようになった。例えば、世の中で仕事に成功し裕福になるなど最も幸せになったときに、さらなる理想を追い求め自殺するのが最高の幸せだと思っていた。逆に、世の中が苦しい、今の生活がつらいので死ぬということは、ただ単に現実から逃げたいと考えているだけのことで、不幸だから死ぬということは意味不明なことで誤っており、最高に幸せな時にこそ、理想を求めて、死ぬのが最も幸せで心の平穏が訪れると考えていた。(常世や霊について研究している今はそのような考えは誤りではないかと考えている、当時は視野の狭い唯物論の観点でのみ死について考えていたので、このような理論に至ってしまったのだと思う)

また、いわゆるアキレスの亀と同じ考えで、父はがんで死に近づくが、その死ぬ瞬間は永遠に縮まるばかりで、死ぬ瞬間には永遠に到達しないので、父は永久に死ぬことはないなどといったことも考えたりもした。

書籍も、芥川龍之介太宰治全集、フロイト精神分析学関係の本、ショーペンハウアーの意志と表象としての世界など、今から考えると厭世主義よりの本や心理学などの本を多く読んでいたように思う。

日に日に父は衰弱していき、そのような姿を見ていて、辛さが限界に近づき、この辛さが消えないものかと考え、痛みで悲しみが消えるかもしれないと思い、腕部分を刃物で3~4センチ程度切ってみたが、血が出るのみで、なぜか痛みはほとんど感じず、苦しみは全く消えなかった。

そして冷酷に時間が過ぎ、父は死んだ。母を悲しませたくないため、死ぬことはしなかった。

その後、仕事に就き、結婚し、家庭を持ち、子供ができたが、そのころには、家族のため死ぬことはできないと考えるようになり、普通の生活を送っていたが、母ががんでなくなり、これを契機に常世と現世、霊について研究をすることになったのです。