ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」
近況
ダンマパダ等を読んだ後、コーラン、古事記、般若心経、金剛般若経などを読んだ。
そして、学生時代に一度、読みかけ、父親が病気で亡くなったため、読むのを途中で頓挫していた、ショーペンハウアーの意志と表象としての世界を久しぶりに最初から読むことにした。
意志と表象としての世界
この本を当時、大学時代に読もうと思ったのは、確か、芥川龍之介全集を読んでいた時に、芥川や他の文豪たちがこの本にかなり影響を受けたと知ったからだ。
芥川の歯車では、芥川の自殺願望がかなり大きくなっている様子がまざまざと表現されており、自殺しか選択肢はないのではといった心境が見て取れる。
そういった芥川の人生観に影響を与えたのがこの意志と表象としての世界なのだろうということで非常に興味を持ったのだ。
私自身も、ちょうどそのころ、父親の闘病中であったため、人の生き死にについて深く考えていたため、厭世主義の代表と思っていた(読み終えると実際には全く違っていたが)ショーペンハウアーの意志と表象としての世界に興味を持ったのだった。
ショーペンハウアーが伝えたかったこと
私は哲学は全く知らず、カントなども読んだことはないが、私なりに解釈すると、この世にまず意志がある。意志とは、生きようとするもの、存続しようとするものそのものであり、この世が成り立っている根本の方向性、動き、力を指している。要は、唯物論でいう生物の存続しようとする本能、物体の変化そのものを言っている。この意志が客体化し物質、植物、動物という客観化への段階(これをイデアと呼んでいる)を経て、最終段階として人間へとなっていく、これらの、時間や場所などの物理法則で存在しているものを表象と呼んでいる。
すなわち、我々のこの世は、全て意志であり、表象なのだ。
最初に、この意志や表象、音楽などの芸術、イデアについて語られ、おそらくショーペンハウアーが最も言いたかったこと、それは、最後に語られる、解脱についてである。
最後、解脱について語る前に、ショーペンハウアーは、「この世は苦悩と退屈しかない」と断言する。すなわち、世の中には苦悩しかなく、苦悩を乗り越えても、一時的な心の平穏はあるが、すぐに次の苦悩がやってくる、そしてそれを死ぬまで繰り返す、一時的な平穏が続くと、それはただ単に退屈でしかないのだと言っている。おそらくこの部分をとらえて、「ショーペンハウアー=厭世主義」という図式が成り立っているのかと思うが、この意志と表象としての世界を最後まで読むとわかるが、ショーペンハウアーが言いたいのは、その次の段階、仏教でいう悟り、解脱である。ショーペンハウアーは、インドのウパニシャッド哲学に特に感銘を受けたようで、仏教の悟りの境地を哲学的に、科学的に、見事に説明している。この本の前段にある、意志とは、イデアとは、表象とはは、全てこの最後の解脱とはを説明するための前振りに過ぎない。
仏教の悟りでは、縁起を通じた全体感やウパニシャッド哲学のブラフマンとアートマンの同一といった梵我一如を心から体感した様子、これを悟り、解脱としているが、この感覚を哲学で理論立てて説明しているのだ。
即ち、意志が各段階を経て表象となり、意志は時間や場所の制約はないが、表象は時間や場所などの制約を受け存在している、自分も他者も同じ意志が表象化したものであり、これを看破した者が悟った者であり、悟った者は自分と他者との区別がなくなり、場合によっては、イエスのように他者のために自分をも犠牲にもする。この悟った者から見ると、この世は表象であるため全ては無であるとしているのだ。
これまでいろいろな本を読んできたが、意志と表象との関係をここまで理論立てて説明したものはなく、また、特に感動したのは、悟り、解脱を理論的に詳しく順序だてて説明していることだ。瞑想などの本を読んでも体験談ばかりであり、この悟りの感覚を、これだけ以前に、いわゆる過去の人が、理論立てて詳細に説明していることに非常に驚かされた。
最後に
以上、簡単に書かせてもらったが、この世の成り立ちや仏教の悟り、解脱について書かれていることから、やや大作で文章も哲学のためやや難解ではあるが、興味のある方は一度、読まれることをお勧めする。
ただし、この本は、あくまで、唯物論での世界観を説いているため、その点については、参考としていただけたらと思います。
欲と怒り
仏教の根本
仏教の最古の経典と言われるダンマパダ(心理のことば)、ウダーナヴァルガ(感興のことば)を読み、続いてスッタニパータ(ブッダのことば)を読んだ。
ゴータマ(ブッダ)が語ったに近い内容が書かれており非常に興味深い内容だ。
過去にも仏教、特にブッダに関する書籍は読んだが、やはり、彼が言いたいことは欲を捨て去ることにより、生、死という輪廻から離脱し、ニルバーナに達するということに尽きると思う。
スッタニパータでは、欲を断ち、悟りを得るということが大切であると繰り返し繰り返し説いている。
欲を断つ
私は欲を断つということは、やはり常世や現世を知る上での基本であると考え、禁欲の実践を進めている。
もちろん、私には、生活があり、家族があり、仕事があるため、完全に欲を断つということは難しい。
ただ、それでも社会人であっても可能な範囲で欲を断つことは可能だ。
私が現在実践しているのは、特にブッダも強く言っている、
酒を飲まない(たばこは既に若いころにやめた)
性欲を断つ
嗜好品を摂取しない(コーヒー、紅茶、菓子類、ジュース類など)
である。
おおかた一般の人が平素の生活で持っているこれらの欲は既に断っている。
また、食事も1日を維持できる程度とし、夕食はほとんど食べないようにしている。(ブッダは過食をしないように説いている)
禁欲による変化
これらを実践していると、おもしろいことに気づいた。それは、感情の変化がなくなってきたことだ。
感情の浮き沈みがこれらの欲求を断つ前に比べ上下しなくなってきた。
つまり、いつもフラットな感情になるということだ。
それと、不思議に思うのは、以前、仕事などをしていると、イライラしたり、誰かに怒ったりといった感情がそれなりにあったものだが、この怒りの感情がほぼなくなったのだ。
怒りは人間が持つ本能であると聞いたことがあるが、その根本である欲求を断つことにより、怒りが出なくなったのだと考えている。
数年前に母ががんになり闘病中であった時、闘病前に趣味でしていた彫刻や折り紙などを全て捨て、家中に飾っていた飾り物や置物を全て捨てたということがあったが、今思えば、これも欲求を全て断つことにより、負の気持ちをなくし、心を平穏に保っていたのだと思う。
私自身、欲を断つということを実践している現在、以前よりも、集中して常世、現世、霊について深く考えることができるようになった。
また、宗教関係の本なども集中して読むことができるようになった。
今後も、自分の精神に一層磨きをかけ、更なる真理の探求に努めていきたいと思う。
生存と向上
人が存在する理由は何か。
このブログのテーマともなっている、現世の存在理由について。
霊や死後存続がないと考えていたころ、いわゆる唯物論者であったときは、現世が存在する理由はなく、ただ、宇宙が発生したから存在しているだけだと考えていた。
もともと無、即ち0だったものが、プラスとマイナス、実数と虚数、物質と反物質といった両極のものに分かれ、そして、それぞれが引かれ合い、また無に戻っていくのではと考えていた。
即ち、存在には意味がないという結論だ。
しかし、霊があると確信した今では、何か現世について意味があるのではと考えている。スピリチュアリズムでは魂の成長が理由としている。
私も、現世の存在理由は、生存と向上だと考えている。
厳密には霊の向上のため生存を必要とするので、究極的には先のスピリチュアリズムと同じ理由となる。
ではなぜ、霊は向上する必要があるのか、これはまだ勉強不足なので確信は持てないが、スヴェーデンボリの天界と地獄では、人、即ち霊は、神の流入によってのみ存在できるとしており、死後は同じ性質を持つ霊同士がグループを作り、それぞれが必要な機能を果たすとしている。つまり、霊は機能の一部であり、機能が集合体となり、全体として天界を構成するのだ。その霊は神の力がなければ存在できないとしている。
このことから、天界がより完全なものになるためには一つ一つの霊の質の向上が必要となってくるのだ。
では、常世、即ち天界の存在理由は何か。
現世の中で霊が向上し、その霊により常世、即ち天界が構成される。
ではその常世の存在理由は何なのか。それがわからない。
自分の想像では、最終的には、霊が神自身と一体化し、一つになるため、天界が存在するのではないかと思っている。
即ち、神はまだ不完全な状態ということになる。
しかし、その常世の存在理由について、人類の宗教や哲学などから、全く痕跡が読み取れない。
私は、まだまだ、これを知りうるだけの勉強が足りていないのだと思う。
今後、更に多くの勉強を重ね、現世はもちろん、常世がなぜ存在するのか、このことについて知りたいと考えている。
今までの経緯と今後の目標
はじめに
私は大学は理系で、これまで、典型的な唯物論者であった。
非科学的なことは全く考えず、いわゆる、今、ほとんどの世間一般の人が考えているのと同様に、生物を含む宇宙というものは、すべて現在の物理法則で成り立っており、死後存続や霊などは全く否定していた。
最初に読んだ本
母が死んだ際、49日内にろうそくが消えたことで、このことについてネットで調べたところ、故人が亡くなった後に同様にろうそくが消えるといったことが多く起こっているということに驚いた。
そして、同じような記事を探していた際、作家の佐藤愛子さんが、霊的な体験をし、その内容で小説を書いているということを知り、まず、佐藤愛子さんの「私の遺言」を読んだ。この本は、佐藤さんが初めて霊体験をし、そして、それを解決していくという本だった。さらに、続けて、霊に関する考え方などを書いた「こんなふうに死にたい」を読んだ。
心霊現象に関する研究の現状
佐藤愛子さんの本でラップ現象などの心霊現象について興味を持ち、ネットで調べていたところ、冨山詩曜さんの「Spiritual Research」というサイトを見つけた。
こちらのサイトには、電子機器を使って霊と交信するITCや霊の声をとらえるEVP、更には、過去のイギリスのスコールグループによる霊に関する研究結果などについて詳しくまとめられており、私の霊に関する興味をより一層高めるきっかけとなった。特に興味深く読ませていただいたのが、「弁護士の論じる死後の世界」だ。これは、死後存続を否定するO教授とヴィクターとの対話形式という形で、過去や現在の心霊現象について科学的に説明していくというものだ。
これを読ませていただき、ITC、EVP、霊媒、体外離脱、臨死体験、ポルターガイスト、生まれ変わりなど、過去や現在における世界での心霊現象やその研究結果の現状などについて幅広く勉強させていただいた。
また、こちらのサイトの開設者である冨山詩曜さんの著書「視えない世界はこんなに役に立つ」を読ませていただき、更に心霊現象について深く勉強させていただいた。
宗教、スピリチュアリズム関連の勉強
その後、スヴェーデンボリの「天界と地獄」を読み感銘を受け、この本については3種類の和訳の本を読み込んだ後、まずは各宗教の勉強が必要と考え、旧約聖書、新約聖書、チベットの死者の書や法華経を読んだ。それから、スピリチュアリズムの勉強として、シルバーバーチの霊訓(一部)、ジェーン•ロバーツの「セスは語る」、福来友吉博士の「心霊と神秘世界」を読んだ。この福来博士の本は、透視や念写の実験結果のみならず、博士の外国における心霊実験(博士自身も海外で実験をしている)に関する考察や仏教と霊に関する考察など、極めて奥深い内容であった。
最近は、仏教の勉強として、最古の仏教の経典と言われているダンマバダ、ウダーナヴァルガなどを読み終えたので、更に仏教、イスラム教、ユダヤ教、日本の神道についても読み込んでいこうと思っている。
今後について
勉強を始めてまだ間がないが、私は死後存続はあると確信している。ただ、これまで長い間、典型的な唯物論者であったことから、全くこのことについてこれまで勉強してこなかった。
まさについ2年ほど前から勉強を始めたところである。
まずはこれまでの人類の死後存続に関する全体像を知りたいと思い、各宗教やその後発展してきたスピリチュアリズム、そして、心霊現象の科学的検証などを総合的に勉強していきたいと考えている。何とか、現世にいるうちに、常世と現世の存在理由及びその関係性について、少しでも理解を深めることができたらと考えている。これが私の今の目標です。
素粒子物理学と霊
今回は、量子論について。
量子論の世界は、ニュートン力学やアインシュタイン等の従来の物理学では説明がつかなくなってきている。
不確定性原理
例えば不確定性原理がその1つとしてよく知られている。
不確定性原理とは、例えば、ある量子が箱の中のどこにあるのか特定できず、その量子は、箱の左側に存在し、また、箱の右側にも存在するということが起こる。これは確率で表現できるが、例えば左側には30%の確率で実際に存在しており、右側にも70%の確率で実際に存在しているのだ。そして人が箱を開けた瞬間に、その量子は左側或いは右側のどちらか片方に確定するというものだ。
つまり、人がその箱を開けるまでどちらにも実際に存在しており、人が箱を開けてはじめてその量子の場所が確定されるのだ。
これを説明するため、多世界解釈という考えがあり、すなわち、量子が左にある世界と右にある世界が重ねあっており、人が観測した瞬間に左に量子がある世界が現実となり、右にある世界が同時に発生しているといった考えだ。つまり、箱を開けた瞬間に2つの世界に分離するのだ。
量子エンタングルメント
1つの量子が壊れ、AとBに分かれたとき、Aのスピンが上向きに決まった瞬間に、Bのスピンが下向きに決まるという現象がある。
驚くべきは、このAとBが例えば宇宙の両端にそれぞれ離れていたとしても、このペアは同時に反対のスピンに決まるというものだ。
アインシュタインなども、これは情報の伝達が光速を超えるものなのでありえないとしているが、量子の世界では実際に起こる現象で、これを利用すると量子テレポーテーションが可能となり、すでに実験でも成功している。
場の理論
電子などの量子は、粒子と波の両方の性質を持っている。
粒子や波が実際に実在するのではなく、場が振動することで波や粒子のように見えるとするのが場の理論である。
場が振動することにより、粒子のように見えたり、波のように見えたりすると解釈することにより、量子の動きについてきれいに説明できるので、素粒子論の基礎となっている。
霊との相似
量子論の代表的な、通常の物理学とは異なる性質を挙げてみたが、これを見ると霊とよく重なってこないだろうか。
ズヴェーデンボリの天界と地獄によると、霊の世界では時間、場所の概念がないとされている。先の量子エンタングルメントのような現象は霊の世界では当たり前の現象である。場所を超えて、霊は他の霊と交信できるのである。また、福来友吉博士は、その著書、心霊と神秘世界において、霊はいたるところにあり、あらゆる場所にいる霊の加護によって、念写等の力の作用が働くとしている。これは、場の理論の考えに非常によく似ている。
不確定制原理では、他世界解釈で考えると、その現象が説明できるが、ジェーン・ロバーツの「セスは語る」においても、人の意識、信念が自分の世界(実際の現実の物理世界)を作っているとする。したがって、他のより高次元の世界なども存在し、無数の、意識により創られた世界が同時に多数存在している、としている。すなわち意識、信念、感情により世界が生まれ、また、これらの世界が同時に存在するのだ。ジェーン・ロバーツはいわゆる、降霊により、他次元の存在であるセスから、これら魂は永遠であることを教わり、人の意識、信念、感情が世界を創るということを教わったのだ。
以上のように、霊について研究すればするほど、量子論の世界は非常に霊の世界によく似ているということがわかる。
まるで、霊の研究結果が、時間が経ち、量子論の内容として発見されていっているかのようだ。
私自身も、今後、更にこれらの関係性やその意味について考えていきたいと思う。
心霊と神秘世界
今回紹介するのは、
福来友吉博士の心霊と神秘世界
である。
この本は、福来博士の念写に関する実験内容や、福来博士の霊に関する研究、考察結果が書かれた貴重な本である。
御船千鶴子
福来博士は、東京帝国大学哲学科を卒業したのち、同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し同大学の助教授として勤務していた。最初の能力者は、千里眼と言われる透視能力を持つ御船千鶴子であった。実験を重ねた結果、その能力が本物と確信し公開実験も行うが、御船千鶴子は、詐欺を疑われるなどし、ついには自殺してしまう。
長尾郁子
当初、透視の実験をしていたところ、写真乾板に何かが写っていることに気付いた。これが念写の発見である。その後、福来博士は念写実験を行うようになったが、学者やマスコミから能力を疑われ、詐欺扱いされ、結果、長尾郁子は実験を拒絶してしまう。その後、長尾郁子は風邪で亡くなってしまう。
高橋貞子
念写実験に成功する。その後、福来博士は「透視と念写」を出版するが、学長から東大教授として内容が好ましくないと警告を受けるも、福来博士は、透視も念写も事実であると主張し東京帝国大学を追放される。その後、新聞等マスコミからもペテン師扱いされ詐欺師扱いされてしまう。
福来博士の考え
本の内容に戻るが、福来博士は唯物論だけを盲目的に信じるのは誤りだと言っている。それは博士自身の日本における数々の透視や念写の実験結果だけでなく、海外における多くの念像(いわゆる霊の写真)、念動(例による物の移動)、霊の物質化(霊が形になり現れること)等に関する研究の調査結果(博士自身も海外に赴き実験を行っている)から考察した結果であり、非常に説得力のあるものとなっている。
福来博士曰く、例えば念写は、能力者が離れた場所にある写真乾板に人の顔や文字などを写し出すのであるが、これは、能力者の力だけでそうさせるのではなく、霊の力によって、そのような結果が出るとしている。もう少し説明すると、霊はいたるところにおり、能力者が念じることによって、写真乾板のところにいる霊が乾板に力を作用させ、人の顔や文字を写し出すとしている。(素粒子物理学の場の理論に似ている)
博士は東京帝国大学を離れた後、高野山大学教授も勤めており、仏教と霊の関係についても深く考察されている。例えば、仏教でいう空が霊だとしている。
この本の前半は能力者の念写実験の内容や外国における霊に関する実験内容等に関する考察であり、後半は、福来博士の霊、仏教、そして念写等との関係に関する考察やこの世のあり方、更には霊や人の存在理由などとなっており、書籍の初頭には、実験に関する実際の霊の写真も多数掲載されており、非常に深く価値ある内容となっている。
ぜひとも、一読されるのをお勧めしたい。
天界と地獄
私が人生で最も感銘を受けた本が、スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)の天界と地獄である。
正しくは、
天界とその驚くべきことについて、また地獄について、聞いたことと見たことから
である。
この本はもともと科学者であったスヴェーデンボリが57歳の時に霊的体験が始まり、生きながらにして霊界を見てきた体験について書かれた書籍である。
この本は、和訳され、有名なところだと、
スヴェーデンボリ出版 ラテン語原典からの和訳(鈴木泰之翻訳)
アルカナ出版 ラテン語原典からの和訳(長島達也翻訳)
がある。
私は上記3冊について全て読んだが、スヴェーデンボリ出版が最もよかった。その理由は、もともと、この天界と地獄には注釈があるのだが、まず、アルカナ出版はこの注釈がないため、理解を深めることが難しい。日本新エルサレム協会静思社については、注釈もあり、内容も概ねよいのだが、英訳からの重訳であるため、若干、英語独特のくどい言い回しになっており、また、誤字、脱字などが多い印象を受けた。
最も完成度が高いのは、スヴェーデンボリ出版のもので、内容もラテン語原典からの和訳で、翻訳も極めて完成度が高く、注釈も丁寧に載せられている。
私は、前回も書いたように、母が亡くなった際にろうそくが消えたことを契機に、霊について勉強するようになり、そして、この本にたどりついた。その後、現在も、仏教やキリスト教をはじめとした宗教関連の書籍や心霊研究の書籍を読み研究しているところであるが、勉強すればするほど、この本の素晴らしさ、内容の奥深さがよくわかってくる。
読まれたことのない方はぜひ、一度読まれることをお勧めする。
おそらく人生観が変わるのではと思います。
内容については、また、別の機会にて、書かせていただきます。